爽やかな香りと甘さが特徴、料亭でも使用される三宝柑(さんぼうかん)

湯浅町は、1年を通じて温暖な気候にあり、柑橘類の栽培が盛んです。そのなかでも特産品とされるのが「三宝柑」という果実。かたちは実の上部が少し膨らんでいて、鮮やかな黄色なので、一見デコポンと間違えることもあります。

しかし、ほかの柑橘と比べても、美味しさは際立つと感じる人も多く、その味わいは爽やかな甘みに溢れ、鮮烈な香りとともに口の中に広がります。果皮は厚めですが、やわらかく容易に剥くことができ、苦味が少なく香りも強いので、料亭などでは器として使用することもあるほどです。生産量は全国で約500トン(2015年、農林水産省統計)と少ないため、料亭など飲食店での流通が主で、希少な柑橘類といえるでしょう。収穫の最盛期は2月中旬から5月頃、生産の9割以上が和歌山県で、その3分の2を湯浅町が占めています。特に生産が盛んな栖原(すはら)地区のものはミネラルをたっぷりと含んだ潮風と、三宝柑の生産に適した土壌、長年の栽培技術によって「栖原三宝柑」として高い評価を受けています。

出典:栖原温泉様ホームページ http://suharaonsen.com/oryouri.php
 

江戸時代は幻の果実だった三宝柑

三宝柑の歴史は、江戸時代にまで遡ります。文政年間(1818年~1830年)の頃、ある和歌山藩士の屋敷に、柑橘の木がありました。ほかには見ない珍しい種類でしたので、その果実を藩主である徳川治宝に献上したところ、とても気に入り、「三宝柑」と名付けたといいます。三宝とは、寺院や神社などで仏前、神前に供え物をするときに使用される木製のお盆のことで、台座の三方向に宝珠のかたちをした穴が空いているものです。当時は身分の高い人へ献上する際にも使用されていました。

徳川治宝がこの果実を大変気に入ったことは、自ら名付けたことでもわかりますが、さらには一般の人々が植栽することを禁止し、藩外への持ち出しも禁止にしてしまいました。それだけ 三宝柑は美味であり、その味を和歌山藩のごく一部でのみ楽しんでいたようです。ほかの地域の人々からすれば、 その存在さえ知りえないものであり、紀州徳川家が愛した三宝柑は、まさに幻の果実だったのです。
しかし、江戸時代の終焉と共に 三宝柑への規制も解かれることになります。明治13年には、湯浅町栖原地区に移植され、生産を開始。生産数は多くないものの、現在では多くの人が三宝柑のおいしさを実感できるようになっています。

 

そのままでも、料理に使っても楽しめる

三宝柑は皮が剥きやすいので、そのまま食べるのにも適している果物です。また、栖原地区の農家さんでは、香りを活かしてジャムをつくるご家庭も多いそうです。
そして、爽やかな甘味と酸味は料理の素材としても使えます。スペアリブなど肉料理を漬け込むときに使用すれば、いつもと違った味のアクセントになります。また、自然薯を摺ったものと百合根などと一緒に蒸して、柚子釜のように盛り付ければ本格的な和食にと、さまざまなバリエーションが楽しめます。

江戸時代には食べることができなかった幻の果実。高い生産シェアと品質を誇る湯浅町栖原の三宝柑をぜひ、一度味わってください。

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