全国に広く存在する念仏踊り

念仏踊りは、念仏を唱えながら鉦(しょう)や太鼓を打ち鳴らし踊るもので、舞踏のひとつと考えられています。しかし念仏を唱えるという特殊性があり、民族舞踏として伝えられているほかに、亡くなられた方の御霊を供養する意味合いも多分に含まれています。念仏踊りそのものは、鎌倉時代に広められたという説が有力で、そこに地域性が加わり、独自の様式が取り入れられ全国に広がりをみせていきました。ここ玉川村に伝わる「南須釜念仏踊り」も、独自の様式を持った念仏踊りのひとつと考えられ、古より伝承されてきました。


「南須釜念仏踊り」の起源は江戸時代初期まで遡る

「南須釜念仏踊り」の起源は古く、江戸時代の慶安年間(1648~1652)、徳川家光と家綱が将軍を務めた時代といわれています。当時は仏の供養としておこなわれ、15歳から16歳以下の男女が8月15日前後に、その年に新盆を迎える家を訪れて、仏前に踊りを供えたことがはじまりだといわれています。長く続いた伝統でしたが、詳しい理由は不明ですが、大正4年に突如 途絶えてしまいました。



昭和に蘇った「南須釜念仏踊り」

しばらく途絶えていた南須釜念仏踊りですが、昭和27年に再興を遂げます。そのきっかけとなったのは、明治生まれで当時72歳になる大野ケサさん。12歳の頃に自分が踊った念仏踊りを記憶を頼りに伝えたのが、南須釜念仏踊り再興のはじまりでした。


年に二回、玉川村東福寺で少女たちが舞う「南須釜念仏踊り」

途絶える以前は若い男女で構成されていた踊りでしたが、再興後は7歳から12歳くらいの少女たちが踊り手となっています。20 名ほどで構成され、南須釜念仏踊保存会の奏でる鉦や太鼓に合わせて、年に二回の晴れ舞台で踊りを披露します。日程は毎年4月3日と8月14日、舞台は国史跡指定の舎利石塔が設置される南須釜の東福寺です。なお、8月14日には古来からの伝統に従い、東福寺で踊ったあと、新盆を迎える家を訪れて踊りを供えます。


少女たちの凛とした姿が美しい伝承文化

南須釜念仏踊りは仏前で舞うものですが、その衣装はきらびやかです。4月3日におこなう春の踊りには振り袖姿で、8月14日の夏の踊りには浴衣姿で登場します。特に夏の浴衣では、裾を膝までたくし上げ、赤い蹴出しと脚絆をのぞかせます。春、夏ともに頭には花や大きな切り紙で飾られた妻折笠をかぶり、まだあどけなさが残る表情ながら、凛とした立ち居振る舞いを披露してくれます。




受け継がれる伝統芸能を、後世へ繋ぐ...

江戸時代から300年以上続く南須釜念仏踊り。大正4年に中断し、昭和27年に復活し紆余曲折を経て伝承されてきた民俗芸能は、昭和50年に福島県の重要無形文化財に登録されました。 昭和の時代に蘇り、令和となった現在も連綿と受け継がれていく伝統。少女たちは成長すれば次の踊り手へと変わっていきますが、現在、南須釜念仏踊保存会の手によって踊りの指導や管理運営が行われ、伝統を次の世代へと繋いでいます。玉川村に伝わる美しい踊りは、これからも後世に引き継がれていきます。

御霊を供養するために踊る少女たちの舞「南須釜念仏踊り」No.075027-01-0001

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